それは私だ。


気づくといつからか、餃子が生活に欠かせない存在になっていた。それも焼き餃子
ランチに食べることもあれば、夜に食べることもある。ランチも夜も両方食べることもある。胃袋が健常な限りだったらいくらでも食べられる。飽きることなんかない。


ここからは、私なりの餃子論を語る。まったくの私的見解を語る。私的見解なので、もちろん異論は大歓迎だ。


焼き餃子の魅力を構成する要素は3つある。
1つ目は皮の食感。焼き餃子を口に入れる時、温度とともに最初に体験する感覚だ。皮の厚さや焼き方によってもちもちの食感、パリパリの食感と、バリエーションは豊富だ。私は皮に関しては厚めのもちもちした食感が好きだ。いや、薄くてパリパリの食感も捨てがたい。そうか、どうしてもどちらか選ぶとしたら前者を選ぶかもしれないというくらいで、実際はどちらも好きだ。


2つ目は具の味。餃子全体の味を決める重要な要素だ。個人的にこれに関しては、美味しければどんな味付けでも構わない。濃い味、薄い味、にんにくの効いた味、生姜の効いた味、お肉の味、野菜の味、特にネギの味。あらゆる味がひとつにまとまる。それは個性だ。意外な組み合わせが美味しくなったりもする。だから、具の味に関しては好みはない。


そして、3つ目は皮と具のバランス。この要素が餃子としての完成度を決める。餃子とは、皮と具が一体となってはじめて成立するものである。そして、味は具が主役となる。皮も美味しいことに越したことはないのだが、具の美味しさを凌駕してしまったら餃子としての完成度を失ってしまう。主張しすぎずに、具の味との絶妙なバランスが求められる。逆にまた、具の味が残念だったらその時点でどんなに完璧な皮だとしても餃子として残念となる。そう、餃子に求められているのは美味しさだけではない。餃子としての完成度なのだ。


ちなみにブダペストでも焼き餃子をいただける朝鮮・中国料理のレストランがあったそうだが、最近つぶれてしまったらしい。
向こうに行って焼き餃子を食べるためには、当面は自分で作るしかなさそうだ。


美味しい餃子を作れるようになるために、東京にいる間は美味しい餃子を食べてしっかり味を研究しておこうと思う。


※一番最近食べた、自由が丘「泰興楼」の焼き餃子。長さ12cmとジャンボサイズだで、味も絶品だった。