ドナウの東か、遥かもっと東から

2016年7月末よりハンガリーのブダペストで生活し、2019年8月末より東京へ。毎日が新しい発見の連続です。

2019年07月

ウクライナ・ザカルパッチャ州旅行も3日目。早朝からヴィノフラディフ(Виноградів)という街にあるヴィノフラディフスキー城(Виногра́дівський замок)を訪れた。そして、このすぐ近くにお城があるとのことだったのでさっそく向かってみた。それがこちらの「ペレニ城(Палац Перені)」だ。

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この城にはかつてハンガリーの貴族ペレーニ(Perényi)家が所有していて、1848・49年の革命および独立戦争の際に処刑された当時の政治家、ペレーニ・ジグモンド(Perényi Zsigmond)男爵が住んでいた。

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ということが、ハンガリー語とウクライナ語が併記されたプレートでわかった。なお、現在この建物は自治体の教育部門の事務所として使われている。


さて、次の目的地ムカチェヴォ(Мукачево)を目指して出発。途中の道が渋滞していて、事故でも起きたのかとちょっと不安になっていたら、

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牛の群れだった。つくづく動物をとても身近に感じる旅行だった。


そしていよいよムカチェヴォ(Мукачево)に到着。丘の上に「パラノク城(Замок Паланок)」が見えた。

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ハンガリー建国神話に登場する伝説の鳥「トゥルル(Turul)」像が、この距離からでもくっきりと確認できた。

ウクライナのザカルパッチャ州は第一次世界大戦以前までハンガリーに属していた地域で、今もなおハンガリー系住民が少なからず居住している。そして、ウジホロド(Ужгород)「ウングヴァール(Ungvár)」ムカチェヴォ(Мукачево)「ムンカーチ(Munkács)」ベレホヴェ(Берегове)「ベレグサース(Beregszász)」と街にはそれぞれハンガリー語名があり、絶賛ハンガリー語学習中の身としては両方の名を記憶するにあたり、かなり混乱もした。


ウジホロド城(Ужгородський замок)セレドニャンスキー城(Середня́нський за́мок)ネヴィツキー城(Невицький замок)と連日古城を訪れ、3日目はウジホロドから南東に約100kmのヴィノフラディフ(Виноградів)へ。ハンガリーとルーマニアとの国境に近く、ハンガリー語ではナジセーレーシュ(Nagyszőlős)という。これは「大きなブドウ園」という意味で、その名の通り多くの民家の庭にブドウが栽培されているのが見えた。ちなみにこのハンガリー語の"ő"という母音と"l"との組み合わせが私にはとても発音しにくくて、ワイン好きとしてはとっても重要な単語なのに、なかなか上手くいうことができないのが悩みである。


ナビに従って、この街でぜひ見ておきたかった「ヴィノフラディフスキー城(Виногра́дівський замок)」に到着。別名を「カンキフ城(Замок Канків ※ハンガリー語:Kankó-vár)」といい、また、この街がかつてハンガリー王国時代ウゴチャ州の州都だったこともあり、「ウゴチャ城(※ハンガリー語:Ugocsavár)」とも呼ばれていた時代もある。

ところで。

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この写真の特に右の方で何かに気づいた方がいらっしゃるかもしれない。実際私はすぐに気づいた。

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なんとヤギに出迎えられた。セレドニャンスキー城(Середня́нський за́мок)ではだったけど、今度はヤギだった。

あまりにのびのびと草を食べている様子が可愛らしくて、動画にも撮ってみた。



文字通り、草食べ放題


この城について最初に公文書に記載されたのは1308年のことだが、ハンガリー王カーロイ・ローベルト(Károly Róbert)に破壊されたのちに再建、15世紀にはフランシスコ会の所有となり、教会としての役割を担った。

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「黒い山」の意味を持つチョルナ山(Чорна Гора)の中腹にあり、眺めも最高だった。

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1557〜1558年頃には破壊され、すっかり廃墟となってしまってわかりにくくなっているのだけど、チャペルもあったそうだ。

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そして、そこから山をほんの少しだけ登ると、現役の礼拝所があった。

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その隣りの広大な敷地には、フランシスコ会の修道院があったそうだ。

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写真だとわかりにくいが、その跡がわずかに残っていた。


車に戻って地図を見ると、すぐ近くにもうひとつお城がある様子。次の目的地に向かう前に、ちょっとだけ寄ってみることにした。

「セレドニャンスキー城(Середня́нський за́мок)」を後にして、目指すはウジホロド(Ужгород)より約12km北東の小高い丘の上に位置する「ネヴィツキー城(Невицький замок)」へ。こんな近くに複数の古城が残っているなんて、マニアの血が騒ぎまくる。


夕方に近づくにつれて、残念ながら天気は徐々に荒れ模様に。緑豊かな丘を登ると、すでに多くの先客がいた。そして、灰色がかった空の下に城の堂々とした佇いが見えた。

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城の前に掲示されていた看板。

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たぶん注意書きなのだろうけど、ウクライナ語で読めない。


伝説によると、ハンガリー征服定住以前にスラヴ人の王女がこの城を建設した。公文書に最初に記載されたのは1274年のこと。

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ウジュ川の谷の地域を護るとともに、今のウクライナのガリツィア地方およびポーランドとハンガリーを結ぶ交通の要所としての役割を担っていた。

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数百年の間に城の所有者は次々と交代し、1644年にハンガリーの大貴族ラーコーツィ・ジェルジ2世(II. Rákóczi György)が占有した際に破壊されてしまった。19世紀の終わりに一度は修復工事が行われたのだが、第一次世界大戦後に中断され、廃墟城としてこの地に残っている。

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ところで、城の近くにはホテルのような建物があった。

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ちょっとした保養地なのかもしれない。


雷がゴロゴロひどくなってきたので、ひとまずこの日の観光は終了。車に戻ると、あちこち蚊に刺されていたことに気づいた。

「ハンガリー征服定住の記念碑(Honfoglalási emlékmű)」を後にし、滞在先のウジホロド(Ужгород)に戻る途中。セレドニェ(Середнє)という小さな町に「セレドニャンスキー城(Середня́нський за́мок)」という古城があることをガイドブックで見つけたので、さっそく足を運んでみた。


ナビに従って無事に到着。しっかりポケストップにもなっていた。

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そして、なぜか敷地内にがいた。

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この城は、おそらく13世紀の初め頃にテンプル騎士団によって建設されたとされている。

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その後16世紀初めにドボー家の所有に、17世紀にはラーコーツィ家の所有となり、ウジホロドリヴィウ(Львів)を繋ぐ道において、重要な交易の要所しての役割を果たしていたようだ。
 
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しかしながら18世紀の初め、当時のハンガリーの大貴族ラーコーツィ・フェレンツ2世(II. Rákóczi Ferenc)がハプスブルク家の支配に対して独立戦争を指導し、失敗に終わって以降廃墟となり、以後現在に到るまで再建の計画はないとのことだ。

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まるで、当時のままで時間が止まっているかのような穏やかな空気に満ちていた。


で、敷地内にはてっきり友人と私2人だけだと思い込んでいたのだけど、物陰から突然ひょっこり8歳くらいの少年が現れた。あまりに急に出現したし、友人の方が近くにいたのに少年に気づかない様子だったので、もしかして幻覚かも?と思った。でも思い切って「こんにちは」と声をかけてみたら、ちゃんと返事をしてくれた。アジア人が珍しいのか、とても興味深そうな様子だった。ただ、「日本人です」としか言えず、その後彼が何を言ったのかは全然わからなかった。そのうち自転車に乗った小さな少女がやってきて、「妹だよ」と教えてくれて、彼女と一緒に立ち去っていった。

たぶん幻覚ではなく、実在の少年(と少女)だったのだと信じている。
 

<前編>はこちら


「ハンガリー征服定住の記念碑(Honfoglalási emlékmű)」前編で拙いながらも表現したようにそれはそれはとても素晴らしい場所だったので、動画も撮ってみた。





実際の眺めは動画以上に素晴らしくて、思わず涙しそうになるくらいだった。のだけど。

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そこに到達するまでの車道が、かつて経験したことのないほどの悪路だった。

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もう、デコボコというのを通し越していた。私の中での「悪路」の定義が覆された。

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ちなみにこの道、幹線道路なのだ。あまりにこの状況を誰かと共有したくて、こちらも動画を撮ってみた。



山の麓の方には道路沿いに住宅地もあった。ここに住む人々はどれだけ大変な生活をしているのだろう、なんてあれこれ考えたりもした。


そして私のウクライナ・ザカルパッチャ地方旅行は、まだまだ続くのだった。

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