ドナウの東か、遥かもっと東から

2016年7月末よりハンガリーのブダペストで生活し、2019年8月末より東京へ。毎日が新しい発見の連続です。

2019年02月

ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエヴォ(Sarajevo)で迎えた朝。前日の経験をもとに「アザーン」で自動的に目覚められるとすっかり思い込んでいたところ、盛大に寝坊した。ホテルの窓の防音効果なのか、「アザーン」が全く聞こえてこなかったし、油断してアラームセットし忘れていたのだった。隣室の友人たちに急いで連絡を取り、朝食の時間をずらしてもらった。


ホテルは、サラエヴォ事件の現場となった場所の近く。窓からはラテン橋(Latinska ćuprija)もくっきり見えた。
 
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朝食を済ませて、旧市街を散歩。まずはラテン橋を渡ってサラエヴォ事件の現場へ。1914年6月28日にオーストリア大公フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィーが青年プリンツィプによって狙撃され、第一次世界大戦のきっかけとなった、まさにその現場である。

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そのすぐ近く、博物館のある建物の外壁にはささやかながら2ヶ国語での記念碑が設置されていた。

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実際この記念碑に気づかないと、そんな歴史的現場にいることに気づかないだろうと思われるほど、何ごともない日常がそこにあった。


そのまま旧市街バシュチャルシヤ(Baščaršija)を歩く。

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街のシンボル的存在でもある水飲み場「セビリ(Sebilj)」のある広場や、

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「ガジ・フスレヴ=ベグ・バザール(Gazi Husrev-begov bezistan)」という商業施設の中を歩きながら、

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また、その近くの古いセルビア正教会の建物を見ながら、ヨーロッパ文化とイスラム文化が融合したエキゾチックな空気を肌で感じた。

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バルカン文化事情に詳しい友人が絶賛していたブレク(burek)のお店"Pite Ispod Saca"でひと休み。朝食でも昼食でもなく、午前のおやつ気分で注文したら、結構大きめサイズで提供された。

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お肉のブレク、もうめちゃくちゃ美味しくて、それだけでこの街に来た意味を感じてしまったくらいだった。そのうち「本宮じゅんの欧州美食探訪記」でも紹介したいと思う(※時期はまだ未定)。


どんより雲に覆われた空の下、雨も降ったりでお天気としては微妙な感じだったけれど、絶品のブレクですっかり気分も上々。まだまだ市内の観光は続く。そして。


<中編>に続く!
 

メジュゴリエ(Međugorjeにあとにして、次なる目的地にしてボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエヴォ(Sarajevo)に到着。この街にもイスラム寺院およびミナレットを多く見かけた。

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ホテルで別の友人2人と合流し、近くのサラエヴォビール工場併設のレストラン「ピヴニツァ HS」(Pivnica HS)へ。

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ビール工場併設だけあって、生ビールが最高に美味しかった。

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あと、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ名物の煮込み料理ムチュカリツァ(Mućkalica)も絶品だった。

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パプリカ粉の風味がよく効いていて辛いくらいだったのだけど、元々そういう味付けなのか、それともこのお店の特徴なのかはよくわからなかった。


ホテルに戻ってから、友人と赤ワイン「ヘルツェゴ・ブラティナ(Hercego Blatina)」で部屋飲み開始。

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しっかりとしたボディでとても美味しかった。


隣室にいる友人たちとも一緒に朝食することにして、程よく酔ったところで就寝。この時点で私はひとつ大きなミスをしていて、それに気付いたのは翌朝になってからだった。

モスタル(Mostar)をあとにして、一旦そこから南西に26kmほどのメジュゴリエ(Međugorje)に寄ってみることにした。途中くねくねした山道を通りながら、40分ほどで到着。


この地では1981年6月24日に6人の青少年が初めて目撃して以来、現在に至るまで聖母マリアが出現すると伝えられている。そして、今や世界中から巡礼者が集まる「聖地」的存在となっているという。街の中心部には聖母マリアをモチーフにしたグッズを売るお土産屋さんを多く見かけた。そしてひときわ存在感を放つ、こちらの「聖ヤコヴァ教会(Crkva Svetog Jakova)」

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中にはには白く美しい聖母マリア像が設置されていた。

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内部の写真撮影は禁止。ただ、建物が新しいからなのか、ヨーロッパでよく見かけるカトリックの教会と違ってとてもシンプルな印象を受けた。そして、ある一点に大きな違和感があった。よくわからないまま建物の外に出ると、その違和感はさらに大きくなった。

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建物の隣にあったのは、広々としたスペースに整然と設置されたベンチ。おそらく集会場だと思われる。よくよく思い返してみると、教会の敷地にこのような集会場があるのを見たのは初めてだった。敷地が広大でも、ベンチは常設されていなかった。そして、これは教会内部でも不思議に思っていたのだが、ここにも数多くの告解室のようなものが設置されていた。って、こんなにたくさん並んでいるのは初めて見た。


そして建物の裏手にまわると、さらに衝撃的な光景が目の前に広がった。

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先ほどの10倍ほどの規模広大な集会場がそこにあり、中央には聖母マリア像のあるステージがあった。そして、ステージを前に放射線状に整整然かつ果てしなく設置されたベンチ

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さらに後方には立ち見席のようなスペースもあった。重要な行事の際はこの集会場が巡礼者でいっぱいになる様子を想像すると、なんとも不思議な気分になった。


建物の側面にもズラリと告解室が並ぶ施設があった。

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巡礼者が集まる時期は、このスペースに長蛇の列を成すのだろう。その様子を実際にこの目で見たくなってしまった。


ところでこの街の住民のほとんどはクロアチア人とのこと。文化にもクロアチアの影響が強いようで、「ガーデンズ(Gardens)」というシーフードのレストランも見つけた。

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というわけで、ここでランチタイム。美味しかったので、詳細はまた近いうちに「本宮じゅんの欧州美食探訪記」の方で紹介したいと思う(※時期は未定)。


ビールを飲んでしまったことを言い訳に友人に運転を任せて、次の目的地へ。複数の文化が共存するボスニア・ヘルツェゴヴィナの魅力に、どんどん取り憑かれてしまっている。

モスタル(Mostar)の街を歩いていて、銃痕と廃墟のほかにもうひとつ気になったのが、

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猫ちゃんの多さ。


前日の夜に訪れた「シャドゥルヴァン(Šadrvan)」の前でも、お出迎え。

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人間が近づいてきても変わらずマイペースな様子を見て、なんだか和んだ。そして、車を取りにホテルの駐車場に戻ると、そこでも発見。

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ちなみに今回宿泊したのは、スターリ・モスト(Stari Most)近くの「ホテル・アルミラ(Hotel Almira)」。とにかく観光に便利なロケーションだった。

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どうやらレストランだけでなく、旅行代理店も併設しているようだった。


シーズンオフだったからかとても空いていて、2人用の部屋を予約していたはずが、

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奥にもう1部屋あって、4人部屋を手配してくれた。

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ソファーベットを使えば6人くらいは泊まれるのかも。バルコニーもあってとても快適だった。スタッフの皆さんもとても親切だった。


ところで、これもシーズンオフだったからなのか、増築工事のようなものをしていた。ちょうど近くではマリオット・ホテルが建設中で、モスタルという街がますます観光地としても注目されつつある様子が伺えた。

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車に戻って次の目的地へ。2月なのにまるで初夏のような陽気に包まれて、すっかりバカンス気分を満喫してしまった。

<前編>はこちら

モスタル(Mostar)の旧市街を歩き、しばらくして「戦争とジェノサイド犠牲者の博物館 1992-1995(Museum Of War And Genocide Victims 1992-1995)」という衝撃的な名前の博物館を見つけた。

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入場料を払って中に入ると、ボスニア内戦時に犠牲になった人々の書簡や当時の所持品、遺留品などが展示されていて、英語の説明書きもあり、これがとてもわかりやすいだけに予想通り、いやそれ以上に衝撃的な内容だった。少し前に訪れたブダペストの「恐怖の館(Terror Háza)」を思い出した。

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こちらは来館者がポストイットにメッセージを書いて壁に貼れるスペース。各国語で平和を願うメッセージが綴られていた。

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犠牲になった人々のことを思い、胸が締め付けられながら外へ。内戦の記憶を風化させないためにも、モスタルを訪れる人には来館を強く勧めようと思った。


引き続き、2月下旬でも暖かい空気の中をテクテクと歩く。

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それにしても街中にも、かつての内戦の爪痕を感じさせるような、破壊された建物をよく見かけた。

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外壁に銃痕が残っている建物もちらほらあった。

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でも、再建された「スターリ・モスト(Stari Most)」をモチーフにしたこちらの壁画を見つけて、ちょっとだけ和んだ。

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橋の左右が迷路になっていて、3つ目の絵で左右から来たそれぞれの赤い点が橋の中央で出会う、というストーリーのようだった。先ほどの博物館で見た橋のVTR(かつての様子から破壊、再建にいたるまで)を思い出した。


どうして多くの人々の命が犠牲にならなければならなかったのか、無学な自分の頭ではまったく理解することができず、重い心のまま車へと戻った。


<番外編>に続く。

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